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ジョン・F・ケネディは1941年海軍に入隊、第二次世界大戦中、南太平洋ソロモン諸島に出征、パトロール魚雷艇(PT)USS PT 109の艇長として、初期の連合軍共同作戦に出撃した。1943年8月2日、PT 109は日本海軍の駆逐艦「天霧」と衝突、乗組員全員が海に投げ出された。15時間の漂流後、負傷者1名を命綱で引っ張って泳いでいたケネディ中尉を含む生存者11名は近くの小島へ漂着した。ケネディ中尉がメッセージを刻んで島民に 託したヤシの実が、連合軍の手に渡り、1943年8月8日全員が無事救出された。乗組員を助けた勇気とリーダーシップによって、海軍・海兵隊勲章およびパープル・ハート勲章を受章した。

戦後、米国と日本はソビエト連邦に対抗するため、日米安全保障条約を締結。しかしケネディ大統領が就任した1961年当時、日米同盟関係は危機的な状況にあった。日本国民は、アメリカの戦争に巻き込まれることを恐れ、米国の沖縄占領に憤り、対等でない日米関係に反感を持っていた。1960年の安保闘争では、数千人のデモ隊が東京の街中を占拠する等、日米関係は最悪の状態に陥っていた。

ケネディ大統領と日本の指導者は、最悪の状態にあった日米同盟関係の修復に努め、その一助として大統領は、当時ハーバード大学の著名な教授であったエドウィン・O・ライシャワーを駐日大使として起用。ライシャワー大使と教養ある日本人妻、ハル夫人の尽力が、それまで孤立し、強硬であった米国大使館を日米両国の架け橋へと変容させた。

ケネディ大統領は、日米関係が対等な協力関係へと変わったのだ、ということを訴えることを企図して、米国大統領として初の訪日を計画した。この歴史的な訪日を実現するため1962年、大統領顧問として最も信頼の厚かった実弟のロバート・F・ケネディ司法長官が来日した。

日本滞在中、ケネディ司法長官はあらゆる階層の人々との間で、米国の政策に関する厳しい批判も受けつつ、対話を進めた。エセル夫人ともに日本へ深い関心を示す様子や親しみやすい人柄が日本の大衆を魅了した。最も印象的だったのは、早稲田大学大隈講堂での出来事であろう。ケネディ司法長官が壇上で話をしようとすると、親共産主義者の学生からのヤジが飛び、親ケネディ派の学生が怒鳴り返し、会場は大混乱に陥った。司法長官は話すのを諦めたものの、壇上からは降りず、討論を進めるため、学生の一人、立谷雄三君に質問をするよう促した。それが、ケネディ司法長官の言う民主主義的な方法であったからだ。皆が驚いて見守る中、司法長官は詰襟の学生群の中へ手を差し伸べて立谷君を壇上に引き上げた。この寛大で礼儀正しいやり方が、危機的な状態にあった日米関係を外交的な勝利へと導き、司法長官
のそれ以降の日本滞在は成功裏に終了した。

結局大統領の訪日は実現しなかったものの、ケネディ政権は日米関係の新時代を拓いた。日米両国は、二国間で各種団体を設立、交流を推進し、その多くは現在でも続いている。ケネディ政権と日本の指導者のリーダーシップによって、壊れかけた日米関係は、単に安全保障という狭い協力関係から、豊かで多面的な関係へと広がり、両国民の幅広い支持を得る結果となった。

ジェニファー・M・リンド
ダートマス大学政治学准教授

ジェニファー・リンド「壇上に共に立つ:そこから学ぶこと」ニューヨークタイムズ、2012年2月6日
ジェニファー・リンド「キャメロットが日本にやってくる」ナショナルインタレスト、2013年7/8月号


JFKと日本

06 JFK artifact in Navy uniform

第二次世界大戦に南太平洋で米国海軍の軍務に服役中のジョン・F・ケネディ、および大統領任期中に日本からの要人と会談するケネディ大統領の写真をご覧ください。